- April 19, 2009
- Category: Valentina Lisitsa
2009.01.19 ソロリサイタル
さて、前回の更新から幾日ぶりかはもう忘れ去ってしまって、かつ、ネタ自体ももう3ヶ月も前のことですが。
いやぁ、行ってきたんですよ。
リシッツァのソロリサイタルに、だ。
トッパンホール、遠いんですよね。駅から。
しかも何を間違えたか、水道橋で降りて歩いちゃったもんだから
もうね、冬だというのに軽く汗ばんじゃって。
普段の運動不足を痛感したわけです。
で、です。
ホールに着くと少し早めに着いたので同様に早めに来た皆さんとただただ
開場を待つわけですが、なんだか普段のリサイタルと異なる雰囲気を感じるわけです。
何というか、ずいぶんとまぁ、スーツなんか着た20代、30代のサラリーマンぽい
若い男性が多いんです、他のリサイタルに比べて。
いつも女性が大挙して押し寄せるキーシンのリサイタルのイメージが強く、
個人的にはクラシックのコンサートはおじいちゃんおばぁちゃんと、幅広い年齢層の女性、という印象なんですよ。
若い男性は1割いるかどうか、という印象でした。
が、違うんです。
いるんです、4割ぐらい。
こらぁ、ニコニコやYouTubeのお陰だな、と
妙な影響力を感じていました。
で、まぁ、開場になって普通は有料で製本されているパンフを売っているんで、売り場を探すのですが、まぁ、売っていなかった。
今回の来日はヒラリー・ハーンの伴奏として来ていたわけだし、
ソロリサイタル自体、ファンからの強い要望がありました、って感じで急遽行われた様子だったのでまぁ、間に合わなかったんだろうな、と。ところが、入り口でもらったプログラムを見ると演目に対する結構長めの解説が書かれている。
こういう解説って誰か評論家にお願いするようなものなのですが、
なんと、リシッツァ本人の曲解釈がつらつらと述べられていて実におもしろいんですよ。
実に率直というか、どちらかというとプログラムにあまり書かれないような強いイメージの言葉が連綿とつながっている。たとえばベートーヴェンのソナタ熱情なんかは冒頭でナポレオンを「戦争で600万人を殺した大量虐殺者」と紹介し、また続いてレーニンがこの曲について「この曲を幾度も繰り返して聴きたい」と述べた一説を引いて「犯罪者が犯罪シーンに惹かれるのに似ている」って。
まぁ、音楽や美術といった芸術は常に社会の環境に弄ばれて育まれてきたわけですが、
脳天気にリサイタル聴きにやってきた平和の国ニッポンの一庶民にとっては刺激の強い文章なわけです。
一方で公式サイト(http://www.valentinalisitsa.com/index.php)では普段、自らのことを"redneck pianist"と表現していることが紹介されているわけです。「いなかっぺピアニスト」の語る、この運動家的表現なわけです。
まぁ、言ってみれば、パンフレット一つをとっても自分で自分の表現をしたい、他人に自分の音楽を解説されたくない、といった感じでモードをがらりと変えて"コンサートモード"になっているわけです。
前置きが長くなりましたが、そんな感じですからもうね、前半は曲目からして緊張感があるわけです。
ラフマニノフの練習曲+プレリュード併せて5曲からソナタ熱情と続く。
弾いている私を見て、おまいら生唾ゴクリと飲み込みなさい、って感じです。てか、曲目だけでも十分に緊張感があるのに、このパンフレットを読む時間が開演前に与えられるわけですから、始まる前からのどがカラカラになっちゃいます。
で、ひとしきりカラカラカサカサになった時点で始まるわけですが、舞台に入ってきたリシッツァがこれまたでかい。やっぱり190ぐらいあるのかな。ラフマニノフの音の絵Op39-6を引いている姿をYoutubeで見てなんとダイナミックレンジのあるピアニストなんだろう、と感心していたけれども、あのなりではまぁ、納得です。
で、初っぱながいきなりその音の絵Op39-6なわけです。
さぁ、Youtubeで再現。
リサイタルの曲順で紹介していきますよぉ、奥さん。
以前既に紹介している動画ですが、やっぱり良い迫力。録音録画と違って生演奏かつ凸版ホールが小さめのホールなのでホール残響があり、動画とは違う印象でややペダルを踏みすぎに聞こえなくもなかったのだが、のっけからわしづかみですよぉ、もうね、柔い、温泉の浸かりすぎでふやけきった私の心を、だ。
パンフではこの曲の副題「赤ずきんと狼」を「恐怖の2分間」と称してホラー調に紹介しているわけだ。「彼女はにげる。オオカミから。木によじ登り、でもおちて、殺されるか、食われるか、何かが起こる」と。
で続くのがプレリュードOp.32-5。
実に穏やかな曲なわけで、ともすればシャンプーかなんかのCMで流れそうな曲でございます。
中間部で一瞬この後続いてく短調の曲のオンパレードをほのめかしたりするわけであります、隊長。
本人の解説は「失楽園」と題して昼下がりの牧歌的なロシアの農村の風景とともに、「小鳥のさえずりが嵐の到来を予言している」としている。
で、次がOp.32-12。
この曲はラフマニノフの自作自演でのルバートが激しく、情感たっぷりで消え入るような演奏やホロビッツの演奏をで聴いていたが、一般に解説される"そり"というイメージではなく、雪の中で長距離の馬車に乗り、凍えるような思いをしてコートの襟を立ててただ窓の外を見ているような、そんな受け止めをしていた。
リシッツァの解説は似たような感じで「大きな悲しみを伴った出発」と表現している。
次。
Op.32-10。
この曲はDVDオムニバスのNVC ARTSから出ている"The Art Of Piano"でモイセビッチがラフマニノフの解釈を紹介している。
モイセビッチのアメリカ初公演の時にラフマニノフが聴きに来て、
"私のプレリュードロ短調を引いてくれてありがとう"
"好きな曲です。何か標題はあるんですか?"
"あぁ、ある。"
"やっぱり。私もそう感じていました。あなたの考えているものとは違うかもしれないけれども。"
"どんな題だい?"
"この標題は話すと長いです。"
"それは違う、一言だ。"
"では違いますね。Return(考え直し)ます。"
ここで椅子に座って頭を抱えたモイセビッチに
"そうだ。Return(帰国)だ。"
とラフマニノフが驚く、という、そんなやり取りだったそうだ。
アメリカに亡命していたラフマニノフにとってはこの曲は望郷の念がこもった、大切な曲であったわけだ。
リシッツァは「私の友人はこの曲を聴いていて今すぐ首をくくりたくなったそうだ。絶望の強大な力と工作する静かな諦めを思わせる。」と表現している。
この曲の終わり、拍手が早漏だった。
弾き手が余韻を噛みしめているのにそこへ拍手はないだろ、って。
早漏野郎はそこに正座して直りなさい!って。
勢い良い拍手だったんできっと何とか部長のような、
初老の男性と想像した。
まぁ、いいや。
次。
Op.23-5。
リシッツァはこの曲を貨物列車や雪崩にたとえ、「とめることは不可能」としている。
この曲はレヴィンやジョイス、自作自演で結構聴いている。よく考えたら祖国から外国に拠点を移した人たちばっかだ。
ラフマニノフの自作自演は強烈なリタルダンド→内声で副旋律を歌う→アッチェレランドと中間部から終わりにかけての聞かせ方が彼らしい。
リシッツァはそこまでテンポは揺らしていないものの、中間部の副旋律も美しく、鼻の奥がツンとなる。
上の録音では後半のミスタッチが目立っているけれども、まぁ、そこはご愛嬌。十分に「こう歌いたい」が伝わってくる演奏である。
ベートーベン熱情。
3楽章一気にまとめて。
冒頭で述べたようにリシッツァの解説ではもう、テーマは戦争。3楽章にいたってはAllegro ma non troppoというベートーヴェンの指示を根拠に「ただ速弾きするのは聴衆を喜ばすだけ。大御所もそんな弾き方をしてきた。が、それは主体と客体、個人と国家の生命をかけた闘いを描くこの曲に対しての安易な解釈だ。」としている。
確かにリシッツァはリヒテルに比べると遅めのテンポをとっている。そして、ゆっくりめに弾くことで高音と低音で繰り返されるそれぞれのフレーズを浮き上がらせている。
ベートーヴェンは外声の低音の処理が不器用でしつこいほどに連打をしたりしていて、そこに無骨な印象を受けがちだが(いや、あの音楽室で飾られている気難しげな表情のせいかもしれない)が、
こうやってフレーズを描き出すことで高音/低音の"会話"がうきでてくるというか、うん、そんな印象だ。
自分としては"聴き手"に過ぎず、リヒテルのようなヴィルトゥオーゾ的な、本人が弾いてどうだ!ってな本人が"音を楽しんでいる"音楽はそれはそれで"おぉ!"となるし、一方でこういった"自分の解釈"を貫いて"音で楽しませてくれる"音楽も、非常にいい。おかぁさんの寝る前の御伽噺のようである。
一方で後半はシューマンの子供の情景でおかぁさんの愛情たっぷりの視線を感じる、ほんわかとした良い感じの和やかさを醸し出して始まるわけだ。
Youtubeで埋め込み無効指定されているのでリンクで。
http://www.youtube.com/watch?v=Aq8LDUCw6sg
http://www.youtube.com/watch?v=JxBuMfBsTNY
リシッツァはこの曲は子供のための曲ではない、確かに弾きやすいが、だからといって子供のための曲ではなく、大人が無くしてきた子供のときの夢である、としている。
確かに一番有名なトロイメライにしてもあまりにやさしく、感傷的な旋律で、一理ある。
ホロビッツの項でも紹介したがホロビッツもツンと鼻の奥にくる印象を受ける。そういう、感傷、ってなわけだ。
この人の場合は上で書いたように"おかぁさんが子供をあやす"、そんな風景が感じられる。
微笑みをたたえて弾くその表情が"子供のころ、大好きなぬいぐるみがあってね、それを毎日か課ながら寝てたの"的な語りかけが聞こえてきて非常に心地いい。
もうね、これ、ほんとにいいっす。
この人、速弾きのテクニックがどうしても評判の前面に出てしまうけど、こういう、語りかける曲について実は真価を発揮しているように感じてならない。
曲想が絶えず揺らめくような、トロイメライしかり、例えば、ショパンの舟歌やノクターンの9-2、サティのJe te veuxなんかが実は凄くいい演奏するんじゃないかなぁ、とあらたな魅力を感じました。
もうね、ぞっこん。
で、だ。
そのトロイメライについてのリシッツァの記述が面白い。
"子供の夢(トロイメライ)にしては長すぎる。夢見がちな子供と比べても。まぁ、この曲はほかの曲と比べて表題と直接的に結びついていないのは大目に見てよいだろう。"だ。大作曲家を上から視線で見ちゃってます。
リサイタルでは誰かが電話の着信音をならして興醒め。マナーモードみたいな中途半端ではなく、電源を切る、ってのは重要ですな。
次。
タールベルクの大幻想曲Op.63。
タールベルクはリストと並んで名人として名をはせた、19世紀のピアニスト。リストが演奏旅行に行っている間、パリで名声を上げるタールベルクを気にして、自分の人気と彼の人気を常に周囲に確認していた、てなウソかホントかかわからない逸話まである。
一方でリストはタールベルクが自らの曲で披露した、両手の親指で旋律を奏で、残りの指で外声を奏でる奏法を取り入れ、愛の夢第3番や超絶のマゼッパのようなピアノ曲なのに楽譜は3段。手は2本なのにね、という、そういう技巧を曲を自ら描いているわけだ。
きっとタールベルクがいないとライバルのいないリストはただの鍵盤の曲芸師であったはずだし、いまや一般の人々にとっては埋もれてしまった隠れた名人ではあってもそこには敬意を払うべき研鑽があるわけですよ。
で、そのタールベルクに対してのリシッツァのコメントはハイネのコメントを引用して"優美でいい趣味"と評し、"彼は王子だった。それに比べ、リストは平民、ショパンはなんちゃって貴族。"だそうだ。
挙句の果てにはnoblesse obligeって。自らの鍵盤の妙技をひけらかして世の女性を失神させるのではなく、下々に対して一段降りて、余裕を持って優雅に語りかけるように弾いた、と。
ね、凄いでしょ、この人。ショパンとリストをこき下ろしちゃってます。
プログラム最後。
凄かったです、これ。
これまた埋め込み無効なのでリンクで。
http://www.youtube.com/watch?v=QUMR_D6G_Sw
ここまでで十分疲れているだろうに凄いことになってた。もうね、この演奏、実際に聞くとこの曲だけでおなかいっぱいです。この曲はホロビッツ編が表題としては有名なのだけれども、「え、こんな曲だったの?」的な原版の迫力を醸し出してくれたわけで。
この時間帯になるとみんな聞きつかれもあるのに"あぁ~っ?寝かせねぇ~よ"と、前髪をつかんでぐっと自らの胸元に頭を引き寄せるような、そんな濃い演奏でした。自分の中ではこのリサイタルの中で一番な演奏。
まぁ、上のリンクは途中で途切れてけれども。リストは平民だ、てなことをタールベルクの紹介で彼女は書いていたけれども、そんな平民のリストをもうね、べろんべろん弾くんですよ。これこそ、noblesse oblige。ほれ、弾いてやったぞ、くるしゅーない、的な。
こっからアンコール。
一曲目。
愛の夢第三番。
…Youtubeにはあがっていません。
なので、代わりにルービンシュタイン。
うん。
代わりに挙げた人が大御所過ぎる。
リシッツァの演奏はここまでくどくはなく、なんつーか、慈愛に満ちた、おかぁさんの暖めてくれたお布団のような、そんな感じでした。
はい、よくわかりません。
で、次がラ・カンパネラ。
この曲はこの人、ホントうまい。
散々疲れる曲弾いてきたのに問題なく弾いてた。たぶん、そういう弾き方をマスターしているのかな。
言う事なし。
次。
エリーゼ。
このリンクの韓国公演だと弾き始めに笑いが出ているが、舐めすぎ。簡単な曲を如何に歌うかが聞かせどころで、技巧的に余裕がある人が弾くと実に名曲になる。素人の弾くレガートと一線を画したその響きにきっと笑った人たちも居住まいを正したに違いない。
ppの中に潜む不安と焦燥、慈しみを醸し出す実に彼女に合った曲だ。
やっぱり先に挙げたとおり、語りかけるような曲が実にいい、この人。
脱力の必至な曲はホントうまい。
次。
アンコールの最後、彼女は胸の前で手を合わせながら「う~ん、じゃ、もう一曲いっちゃいましょか。」的な仕草をし、この曲で締めた。
でもね、Youtubeにはありませんでした、弾いてる動画。
公式サイトのアーカイブ(http://www.valentinalisitsa.com/multimedia.php)では見られるのでvideos→Performance videos→Chopin Waltz D Flat minerで鑑賞してくださいな。
以上、リサイタルの再現。
総じていうと、実によかった。安かったし。
解釈にしても近年のコンクールピアニストとは一線どころか三線ぐらいを画すし、
さらには熱情の解説にあるように大御所まで否定するぐらいに度胸の据わった「俺解釈」。
次はいつ来るのか、実に楽しみ。
来てくれないかなぁ。
来年はカナダでラフマニノフのコンチェルト3番→ソロリサイタル→North Carolinaでラフマニノフのコンチェルト2番をやるらしい。
5月にはロッテルダムで近年話題になった幻の(てか、嘘の)Rachmainoff 5th Concertoだそうだ。
う~ん、聴きに行きたい…
うん、実に大変だった、まとめるの。
思い出しながらだから6時間ほどもかかった。
だめだね、ちゃっちゃとこなさないと。